カラメル☆ダイアリー

ソシャゲ日記と1%の閃きと99%の嘘

明けない新年と謎マナー

夜明けとは夜の終わりである。同様に、年明けとは年の終わりである。だから

新年あけましておめでとうございます

という表現は完全に誤っている。新年が明けるのは1年先だ。

この事実は日本語誤用シリーズの中でも「役不足」や「確信犯」に次ぐ知名度を誇るので、知っている人は知っている。とはいえテレビ局や企業でさえ当然のように誤用しているのを見るに、この“誤用”が正当な表現として膾炙していることは明らかだ。どうせ社会の大部分では既に新年が明けているのだから、誤用など気にするだけ無駄、気にしたら負けである。そうは言っても、ひとたび誤用だと知ってしまえば気になるのが人の性なので、実のところ知ったら負けである。つまり、この記事を読んでいる貴方も今日から負け組である。

話は変わるが、数年前から「謎マナー」なる概念が流行している。「徳利の注ぎ口を使って注ぐのは失礼」とかいうアレだ。全くもって理解に苦しむ主張だが、そもそもマナーとは「人が他者との関わりの中で気持ちよく過ごすための作法」である。いやしくもマナーの名を冠する以上、世界の何処かには徳利の注ぎ口から飲み物が注がれるのを見ると不快になるという稀有な才能の持ち主がいるのだろう。…本当にそうだろうか?それは天賦の才能などではなく、その行為が失礼にあたると学習した結果としての反応ではないだろうか。すなわち、謎マナーを勉強するという行為を通して自らが不快になる要因を増やしてしまったのではないか。嘆かわしいことに、礼儀の名の下に無から不快さを生産する傍迷惑な機構は社会の至る所に存在する。知ったら負けとはまさにこのことだ。

なんということだろう。正しい日本語の知識と謎マナーが本質的に同等だなんて。

しかし冷静に考えれば、謎マナーに限らず礼儀とは元来そういうものだ。もっと言えば、本来何の意味も持たない物理現象に意味や解釈を与えることは、人類の知性が為す営みの根幹である。例えば、あなたが誰かに面と向かって「バカ」と言われたとしよう。この「バカ」は単なる音声、すなわち空気の振動でしかない。この物理現象を通してあなたが侮辱の意図を感じることができるのは、ひとえに文化教育の賜物である。もしあなたがバカという単語を知らない程度に無知であれば、少なくともこの場面においては幸せである。とはいえ、人類が社会を形作る過程でバカという単語を作る必要に迫られる程度には世の中には馬鹿が多いのだから、この単語が存在しなければ何かと不便だったのだろう。先人はバカという単語を作る道を選んだ。であるからして後世に生きる我々は、侮辱の意図に気付かないというささやかな幸せを捨てて、この単語と共に人生を歩む他ない。さもなければ無学の烙印を押されるだけだ。人はこれを文化と呼ぶ。

結局、バカという単語の存在が許されて謎マナーが(少なくとも謎と称される程度には)許されない理由は、単にコミュニティ内で合意がとれているか否かの違いでしかない。理屈の正当性などは端から問題でなく、単なる文化として同じ土俵に立っている。そして、あらゆる文化はその性質の帰結として同調圧力を伴う。となれば、その文化を定着させるための最適戦略はただ一つ、ゴリ押しである。どれだけネットで叩かれてもめげないマナー講師たちの行為は実に理に適っているわけだ。クソが

だからこそ敢えて言おう。新年はまだ明けない。そして、「新年が明けた」という既成事実が形成されつつあることを決して看過してはならない。納得がいかないという読者は、日本語学習中の外国人の立場になって考えてみるとよい。我々は今一度、中学校で英語の動詞の不規則変化を初めて習った時のあの感情を思い出すべきなのである。